千利休の孫、宗旦の三男である江岑宗左が基礎を固めた流派です。宗左は、父の宗旦から千家に伝わる利休の伝承を聞き、書簡にまとめました。これは、次第に遠ざかる流祖利休の面影を、できるだけ千家に残そうとする試みでした。そして宗左は、茶堂として紀州徳川家に仕官します。その出仕から間もない正保3年(1646)、宗旦は隠居し、家督を宗左に譲ります。以来400年余り、表千家はその「茶の心」を受け継いできました。単に型の継承にとどまらず、その時代に即した新たな息吹が注ぎ込まれた生きた文化として伝えられており、「水が流れるが如く自然に」というのが表千家の点前の特徴です。
千利休の孫、宗旦は家督を三男の江岑宗左に譲り、四男である仙叟宗室を伴って屋敷の裏の地に移り住みます。これが裏千家の始まりで、以降歴代の家元は加賀前田家、四国松山松平家に仕えました。裏千家では、千利休以来の「和敬清寂」の精神を基に、人のつながりを大切に育んでいます。また11代玄々斎精中が京都博覧会(1871)に際して、正座に不慣れな外国人のために椅子に腰掛ける形式の「立礼式」の点茶盤を考案したように、伝統を大切に守り伝えるとともに、時代に応じた茶道文化の普及・発展に努めています。16代坐忘斎家元は、学校や職場などに幅広く茶の心を伝え、茶道人の育成と茶道文化の明確化に向け活動しています。
千利休の孫、宗旦の次男である一翁宗守が始めた流派です。宗守は一時、父の元を離れ吉岡甚右衛門と名乗り、塗師を生業としました。やがて兄弟の勧めで技を中村宗哲に譲り、千家に復します。宗守は高松松平家に出仕し、高松藩の茶道指南役を務めました。それ以降、武者小路家は茶の普及に努めます。例えば、7代目直斎は武家出身の養子ですが、同時代の表千家7代目如心斎や裏千家8代目一燈宗室らとともに、家元制度を整備し多くの門人を受け入れ、中興と称される時代を築きました。その伝統は現在14代目である不徹斎まで脈々と受け継がれています。
江戸千家の流祖・川上不白(1716〜1807)は表千家の7代目如心斎天然の高弟でした。寛延3年(1750)、師の如心斎の命を受け、32歳の若さで、江戸の地に千家の茶を広めるために下ったのが始まりです。江戸で独立してからの不白は、当時の幕府高官や大名、商人、文化人、はては下町の職人たちにまで茶を広めましたが、その行動力と自由さは人々の共感を呼び、全国的な規模で広まっていきました。現在では諸派に分かれてはいますが、どの流儀も、流祖の教えを守り活躍しています。私ども江戸千家岐部派は、不白の高弟・岐部千山が祖で、代々、数寄者がこの流れを支えています。
遠州流茶道は、江戸時代初期に活躍した大名茶人・小堀遠州を流祖とする武家茶道です。遠州は、徳川将軍家の茶道指南役を務め、作事奉行として名古屋城天守、仙洞御所をはじめとする建築・造園の遺構を数多く残しています。また、歌道、香道、茶陶器の製作にも優れ、総合芸術として江戸における茶の湯文化の発展に貢献しました。遠州流茶道の真髄は、「綺麗さび」と称され、「わび・さび」の精神に品格を与えた、洗練された客観性の美学です。現在は約430年の歴史を経て、遠州茶道宗家13世・小堀宗実家元に受け継がれ、「茶の湯を通して心を豊かに」をモットーに、国内外で広く活動しています。
遠州流茶道は、江戸時代初期に活躍した大名茶人・小堀遠州を流祖とする武家茶道です。遠州は、徳川将軍家の茶道指南役を務め、作事奉行として名古屋城天守、仙洞御所をはじめとする建築・造園の遺構を数多く残しています。また、歌道、香道、茶陶器の製作にも優れ、総合芸術として江戸における茶の湯文化の発展に貢献しました。遠州流茶道の真髄は、「綺麗さび」と称され、「わび・さび」の精神に品格を与えた、洗練された客観性の美学です。現在は約430年の歴史を経て、遠州茶道宗家13世・小堀宗実家元に受け継がれ、「茶の湯を通して心を豊かに」をモットーに、国内外で広く活動しています。
江戸千家は、流祖・川上不白が寛延3年(1750)に京都より江戸に下り千家の御茶を伝えた流儀です。不白は16歳で京都の表千家七世心如斎宗匠に入門、以後16年間家元内弟子として薫陶を受け、如斎宗からの信任厚く「江戸に千家の茶を広めよ」との命を受けて江戸に下りました。不白がもたらした町衆の御茶は、公家、大名から関取、河岸の若い衆に至るまで身分の枠を超えて広まり、江戸っ子の粋な御茶となって大いに流行、やがては参勤交代に伴って全国に広まりました。以来270有余年にわたり川上家の代々が宗家として江戸・東京の地にあって不白の茶の湯を今日に守り伝えてまいりました。
引用:銀茶会公式HP